2009年12月24日木曜日

「ツチヤの貧格」 その1


● もしかして、これ、ツチヤ?



 いつものようにこのシーズンになると日本から小包が届く。
 今年も送料約70ドルほどで届いた。
 このお金をもって日本食料品店へいけば、中に入っているものの2倍から3倍は買える。
 中には100円ショップのものも入っている。
 100円のものを2倍3倍の郵便料金を出して、海外に送るから面白いのだ、ということのようである。

 ところで、我が家にはお正月はない。
 振り返ってみると、最後に正月を過ごしたのは何時か、まるで記憶にない。
 少なくとも、今からちょうど10年前の1999年はミレニアムであったが、このときも一人で年越ししたから十数年ほどお正月はやっていないのだろうと思う。
 そのくらい、お正月とは無縁に過ごしてきたということになる。

 子どもの頃のお正月の思い出はそこそこある。
 日本で生活していたときの正月の思い出もある。
 こちらに来た後、しばらくしてから我が家からはお正月が消えてしまった。
 日本の暦にはお正月はあるが、我が家の暦、というより私の暦にはない。
 同じ暦を使っているのだが、お正月という行為だけが私がみるときだけ消えるようである。
 一人で過ごすお正月なので、自然とそうなってしまったのだろう。

 お正月のない暦を使い続けていると、ごくあたりまえに洗脳されてくるのであろうか、お正月があることすら忘れてしまうようである。
 齢を経るにしたがって物忘れも進行するから、ここ最近の記憶は曖昧になってきており、お正月の記憶というのは、もはやとりかえせないくらいに無くなってしまったということなのだろう。
 お正月の記憶がないように、お正月のない国で消えていくのもいいだろう。

 もし、日本で消えるとなると、これきつい。
 正月のイメージなしで、あの世とやらに旅立たねばならないからだ。
 閻魔の親分に、「何、正月を覚えていない、地獄行き決定!」ともなりかねない。
 「NKエージェント」の広告はミスプリであったという。
 「旅のお手伝い」ではなく、「旅立ちのお手伝い」である。
 これ、お分かり?

 「お正月が来るんだ!」
 と、ささやかに意識するのは、例年年末にこの小包が我が家の慣例として送られてきた時なのではないかと思っている。
 今回はすんなり届いた。
 去年は、12月初めの日付で出されて、届いたのは年を越して翌年に入ってから。
 「EMS:国際スピード郵便」でありながら、なんと5週間かかった。
 日本なら郵便局に怒鳴り込むのだが。
 海を渡ると考えもしなかったいろいろなことが、ランダムに起こってくる。
 でもその思ってもみなかったことに面白さを感じさせるのが、海を渡ったものの生活ということだろうか。
 そんなことを肴に、はるか昔の思い出などを、書いていたら、もう一つ郵便が届いた。

 それがこれ。



 郵便包装をはがしたとき、えらいものが目に入ってきた。
 「ちょっと待ってよ、もしかしてこれツチヤ?
 「ウソー!」
 である。
 いやそんなことはない、ツチヤというのは「あの貧相な男」と、『ツチヤの口車』の帯カバーに書いてあったはずである。
 こんなダンデイーなオヤジであるはずがない。
 何かの間違いとしかいいようがない。
 イメージが合わないのである。
 もしこれがツチヤの本なら、書店でも手は出さないだろう。
 おそらく買いはしないだろう。
 気恥ずかしくてソット見えない棚に置き換えてしまうだろう。
 何か見てはいけないものを見たような余韻を引きずってしまうのだ。
 場違いなのである。
 ビシリとスーツを着込み、高そうな靴を履き、靴下は「」でなくて黒だ。
 こういうことはあってはならないと思う。
 ワイシャツにきっちりネクタイをしめ、ちょっと頭はぼさぼさだが、高価なチェアーにまるでこれが日ごろの姿だといった表情でくつろいでいる。



 もし時代が時代なら、小川芳樹、貝塚茂樹、湯川秀樹、小川環樹の「四樹兄弟」ならぬ、土屋賢樹を加えて「五樹兄弟」ということにしても通りそうな雰囲気である。
 タイトルは「貧格」ではないか。
 この本、売れるはずがない。
 ポリシーがかみ合っていない。

 読者が求めているのは、舶来のスーツを何気なく着こなす高邁な哲学者の語る深遠な「貧格」ではない。
 不品格オーラの光輝く膝の抜けかかったデニムのスボンに、ゴムの伸びきった脱げそで脱げない少し灰色がかった白いソックスと、カカトの半ばつぶれかかった合成皮靴で、カカトに豆をつくりつつ血を流し、颯爽と転びかけながら、家庭からつまはじきになりながらも、刑務所の塀の上ぼどの狭さしかない悲運の堤を胸張って歩く、救いの手をさしのべようという気にはまるでならない屁理屈で、「人間、いかに生くべきか」という大問題に、役にも立たない説教を垂れる奈落のテツガク教授の「貧格」なのである。
 なにか、大きな手違いが起こったようである。

 「まえがき」をみてみる。


  今までの売り上げは冴えなかった。
  売り上げが思わしくないことが分かるたびに、何が悪いのか真摯に反省した。
 タイトルが悪いのではないか、
 表紙が悪いのではないか、
  その他、
 広告の出し方、
 発売時期、
 書店の売り方、
 日本の景気、
  など要するに「内容を除く」あらゆる点に問題がないか再点検し、可能なかぎり改善してきた。
 すべて試して失敗に終わった
 その今、編集部が新しい可能性に気がついた。
 「ツチヤのルックスを利用しない手はない」。
 ヴィジュアル系のわたしの可能性に気づいたのだ。
 わたしを何度も見ていながら、なぜ今まで気がつかなかったのか。

 気がつくのが遅すぎると思いながらも、編集部の要求通りに写真撮影に臨んだ。
 わたしの写真を本の帯に載せるのだ。
 撮影場所に行って不安に襲われた。
 カメラマンは文芸春秋写真部の人だが、この人がいかにも頼りない。
 貧相な体型といい、落ち着きのない態度といい、オドオドした話し方といい、わたしによく似ているのだ。
 職場でも家庭でも恵まれない生活を送っているに違いない。
 それだけでも信頼できないが、写真を撮りながら、しきりに首をかしげている。
 写真にもよっぽど自信がないのだ。

 失望した。
 こんなカメラマンしかいないのか。
 出版社は社運をかけてでも、一流カメラマンを使う意気込みをなぜもてないのか。
 これでは売れそうにない。
 わたしはこう思いながら、バーのカウンターに片ひじをついて
 物思いにふける渋くさくて貧のいい紳士のポーズや、
 椅子に座り思索をめぐらす重厚な知的紳士のポーズを
 次々にとった。


 間違いというものはいつでも、どこでも起こる。
 初めの一つのボタンを掛け違うと、次々ズレてくる。
 間隔が同じなのでその間違いになかなか気づかない。
 正しいことをしていると思い込んでしまう。
 そして、終末を迎えることになる。
 「あれ、穴が一つ足りない?」


 最初、本の帯に小さく載せるだけ、ということだった。
 ヴィジュアル系といっても、いきなり大きい写真を使うにはあまりにもリスクが大きすぎるのだ。
 わたしの予想では切手大だろうと思っていた。
 切手大の全身写真なら、顔は非常に小さくなって、だれの顔だかわからなるから安心だ。
 だが、写真が出来上がってみると、驚いたことに、小さく使うのはもったいないほど美しく写っている。
 もちろんわたしの写り方は不本意だが、写真全体が絵のようなのだ。
 とても貧相な男が撮ったとは思えない。
 彼がしきりに首をかしげていたのは、「どうして自分にこんなにいい写真が撮れるんだろう?」と不審に思ったからかもしれない。

 編集部はあらためてわたしのルックスに感銘を受けたのか、予定を変えて写真を大きく使うことになった。
 一冊まるまる写真集にしてもいいのではないかと思ったが、編集部はまだわたしにそこまで価値があることには気づいていない。


 こんな帯、見たことないという鼻もかめない厚手の、幅広の至極バランスの悪いカバーが出来上がった。
 「これ何というサイズですか」
 と、聞いてみた。
 「あってはならない百万円札スタイル、ツチヤの要望!」



 という答えが、返ってきた。
 「さも、ありなん」
 下が巷に出回っているポピラーな50ドル(5千円)紙幣。
 口車のカバーはこのお札の3/4ほどしかない。

 (ちなみに、100ドル紙幣(1万円札相当)を使おうとおもったのだが、もう10年以上これがサイフに入っているのを見たことがないので、コピ-できなかった)


 不十分とはいえ、わたしのヴィジュアル的価値が認められたことは評価できる。
 そう思っていたら衝撃が待っていた。
 タイトルをツチヤの貧格するというのだ。
 なんのために上品な写真を撮ったのか。
 この写真とこのタイトルを組み合わせたら、どういう結果になるかすぐに理解できる。
 「精一杯気取ったポーズをとる、この男の貧相な姿を見よ」
 編集部の狙いは、ヴィジュアル的美しさよりも、(あってはならない)笑いだったのか。
 
 笑いを狙っても、売れるならまだいい。
 だが、まともに考えれば、売れるはずがない。
 こんな勘違いして気取って写っている男の本を、誰が買うだろうか。
 わたしは軽蔑され、売り上げはふるわないに決まっている。
 そうなると、出版社は売れない原因をわたしのルックスに求めるだろう。
 結局、世間に対して、わたしのイメージは大きく傷ついてしまう。
 そして、ルックスの次は、いよいよ本の内容が疑問視されることになるのだ。



 『ツチヤの口車』を「教授の不品格」と述べたが、「ツチヤの貧格」と自らを称している。
 大学教授であちこち講演しているから、知っている人は知っているかもしれないが、知らない人の憧れの「貧相」を、あえて壊す必要はないはずだ。
 「● 連載を続けているといつの間にか、機種に関係なく、パソコンの画面やキーボードに、チョコレート、みかんの汁、ラーメンの汁などが付着する」という貧格である。
 この生活としての貧格が帯カバーの写真からはにじみ出てこないのだ。
 実に残念なことだと思うのだが。
 やっぱり、この本売れないな。




 だいたい、この本のカバーがいけない。
 これ、ホグワーツ魔術学校の図書館にある本と同じ表紙ではないか。
 濃茶で周囲に枠どりがしてある。
 どちらも「身の毛もよだつ」ことに変わりはないが。
 図書館のは羊皮の表紙を使っているが、これはやたらと似せてはあるソフトカバーの西洋紙だ。
 ちゃちい。
 「帯より表紙」だろう。
 帯はすぐにグシャグシャにされてゴミバコへ捨てられる。
 この帯、グシャグシャにするのに時間がかかる。
 それにゴミバコを占有する。
 そのことでも売れない。
 表紙カバーが美しくないと、下取りのブックオフにも売れない。

 まあ、人の本のカバーの話はやめよう。
 売れても売れなくても、私には一文の得にもならないのだ。
 ヨイショして売れても、ツチヤの懐を暖めるだけではないか。
 若干のバックマネーでもついていれば、スパーヨイショしてもいいのだが。



 <つづく>






◇].

日本語俗語辞書
http://zokugo-dict.com/27hi/hinkaku.htm
 『貧格』とは品位・気品などを意味する『品格』をもじったもので、品格が欠如していること(=品格が貧しい)を意味している。
 貧格は2005年11月に発売された藤原正彦著『国家の品格(新潮新書)』や2006年9月に発売された坂東眞理子著『女性の品格(PHP新書)』といったベストセラーによる「品格ブーム」から生まれた言葉である。
 また、逆に2008になると土屋賢二著『ツチヤの貧格』、ビートたけし著『貧格ニッポン新記録(小学館101新書)』、横澤彪・J-CASTニュース編集部著『テレビの貧格』といった書籍が出版されている。




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