2009年11月20日金曜日

Multicultural Festival 2009 その5










 琴の次は「Tea Ceremony:茶道」である。

 さて、この稿は絶対に皆さんの、といっても男性だけだが、目をひくこと請け合いの稿である。
 和服の金髪美人がお茶をたてるのである。
 理屈なんぞいらずに写真だけ見たい、という人も多いだろう。
 でもそうはいかない。
 「***の口車」ではないが、恐怖の理屈をつけるのが楽しみの昨今。
 が、ここで載せられるのは数枚からせいぜい10枚程度。
 残りは消去してしまうことになる。







 が、それではもったいない。
 やはりここは、読者の要望には沿わないといけない。
 それは理屈であり、曇り空下のボケ写真なので、捨てるのはかまわないが、でも何か惜しい気もする。
 とはいえあまりの多さには悲鳴をあげてしまう。
 どうしようか少々、面倒になってきている。
 手を出すのがいやになってきてきるのである。
 よって、[folder]にしておきますので、見たい人はそちらを参照してください。

「folder」

 ところで、この和服・着物というものだが、私は日本人で見慣れており心理的・生理的美的感覚が、それを「美とする基準」をもって作られている。
 だから、豪華な洋装と和装を比較するとどうしても、和装の方に軍配を上げてしまう。
 いかに派手やかなドレスであろうと、同じような華やかさをもった和服にはかなわないのではないかと判断してしまう。
 日本人でない外国人はどう心理的に写るのであろうか。
 もちろん「ビーテイフル」とか、誉めそやしはするが、それはあくまでも一般的に美しいビーテイフルであって、自分たちの服装の美的感覚からいくと、私が和服に軍配を上げるように、彼らは自らの服装に軍配を上げることになるのであろう。

 通常の考えでいけば、何しろ和服は着にくい。
 ドレスのようにスッポリきて済むものではない。
 ちゃんと着付け師に頼まないと型崩を起こすシロモノである。
 いったいそんなものを着て、彼女たちはナニを考えているのかと、ちっと気を回してしまう。
 それを身につけて、さらには「お茶」をやろうという。

 着物というのは直線でできている。
 ドレスというのは曲線でできている。
 よって、作成するときドレスは型紙がないとできないし、チョキチョキ切った残りは使用されることなく捨て去られる。
 もちろん、端切れを何かに使うという使い方はあるが。
 よって、一度作ったものは、作り直しはきかない。
 着物の場合、布の直線を縫い合わせてできている。
 鋏は長さに対して入るだけで、形に対しては入らない。
 よって余った布地は出るが、切り残りは出ない。
 そのため、一度作ったものをほどいて、また別のものに作り直すことが可能である。

 「貧しさの知恵」といえばいえるが、この結果、着物は常に直線を基準に作られることになる。
 とすれば、折り紙でお雛様が作れる。
 直線の組み合わせなら、そう種類が多いものではない。
 とどのつまるところ、着物の形状とは長い年月の間に成熟しつくして、完成度100%になったものだともいえる。
 これに対してドレスが曲線が主体であるから、いくらでも形状が生み出せる。
 つまり、完成された形が存在しえない。
 よって、毎年毎年ファッションショーが開かれることになる。
 折り紙では、女王様は作れない。






 「お嬢ちゃん、ゆっくり歩こうね。裾がめくれてるよ。難しいんだよ着物は」

 一時、話題になったのが、日本初の外国人芸者の誕生。
 オーストラリア出身、オックスフォード大学で博士号を取得して、芸者になったという変り種。
 芸者修行で一番つらかったのは、「正座すること」だと言っていた。
 
 「25today」のサイトに載っています。

★ 25today
「日本が誇る伝統の業を伝えたい」 [2008/5/05]
http://top.25today.com/interview/post_215.php
史上初の外国人芸者 紗幸さんインタビュー


 写真のお嬢さんも立つとき、一瞬フラリとしていた。
 日本文化ではあるが、そのまま持ち込む限り、明確に言えることは「茶道」は国際化しないということである。
 あくまでも、「日本文化」だということ。
 寿司は生魚を抜き、それに変わる具を調達することによってインターナショナル化した。
 いま、大きなショッピングセンターへいけば、「Sushi Shop」が2軒は見出せる。

 あえて言えば、茶道は国際化してほしくない部類に入る日本文化であって欲しいということである。
 なんでもかんでもグローバル化すればいい、というものでもない。
 

 <つづく>



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