2009年6月29日月曜日

ラブラドール遺産ウオーク その5


● No.9 案内ポール


● No.10 案内ポール



 カラーの幅の広い遊歩道は「6100」のマークとともに終了する。
 旧歩道に変わるのだが、これが二列縦隊。
 当初は1mほどの幅であった。
 実に狭かった。
 通行量が増えたため、ちょっと広い歩道を横にもう1列付け加えた。
 そして不細工歩道に変わった。
 これはしかたないこと。
 こういう工事はどうしても予算というものに縛られてしまう。
 が、ものの30mほどいくと、今度はそこから直角に曲がって海岸沿いを歩く新たな遊歩道がつくられたのた。
 この発想が、まるでわからない。


● 「6100」 旧歩道と新しい遊歩道

 このところ財源が豊かになったらしく、歩道の整備が街のあちこちで進んでいる。
 中心部を除けば、ここには歩道がなかった。
 例えば、以前に住んでいた住宅地の前は20m道路であった。
 中央に8mの車道、両脇に6mづつの歩道。
 この歩道、何もない。
 雑草生えっぱなし。
 ときどき、馬鹿でかいスラッシャーがきてガガガーと芝刈りをしていく。
 それだけ。
 よって歩行者は歩道など歩かない。
 歩きやすい車道を歩くのは当然のこと。
 といっても、朝方のウオーキングか生徒の通学しか歩行者はいないのだが。
 よって、車の運転は注意しないといけない。
 歩道のある道路ではなく、歩道のない道という認識で走らないといけない。
 怖いのは夜。
 夜、散歩する人がいる。
 突然、ライトの中に人影が浮かぶ。
 よって、ここではセンターラインの描いていない住宅地の道路では、必ず真ん中を走らないといけない。
 運転免許試験には中央左側を走れ、と出てくるがそうも言っていられない。

 では歩道を歩くのは何。
 付近で飼われている馬がパカパカと。
 ちなみに、ここの歩道は居住者が勝手に使っていい。
 皆が自分の家の前の歩道をきれいに整備し、芝生を植える。
 なかには木々も植える。
 日本なら車を止めるに邪魔にならないように、少し歩道に乗り上げた感じで駐車する。
 そんなことをしたら、芝が壊されるとえらく住人に文句を言われる。
 よって車道にドデンと止める。
 その分、道が狭くなる。
 まあ、交通量が圧倒的に少ないからいいが。

 人口が増え、子どもが多くなると車道を歩くには危険だということで歩道が整備されつつある。
 幅広い歩道の中央部に、幅1m半ほどのコンクリート道がしつらえる。
 とすると、今度はコンクリート道路の左右をブロックで囲って花壇を作りはじめる。
 美しい花々を競って植えている。
 もちろん、市役所は文句はいわない。
 誰もクレームをつけないから。
 ありがたいことに四季の花の散策が楽しめることになる。
  
 ところで、どうせ造るのなら、ちょびっと、ほんのチョビット伸ばして幅広の遊歩道につなげればいいだろう。
 なぜにガタガタの旧歩道に直角に交わるように設置するのだ。
 費用的にははとんど変わらないだろうに。
 「ノープロブレム」
 たしかに、歩く者にとっては、とりたてて不便は感じないのでノープロブレムだが、トータル的な設計ポリシーから考えると、頭をひねる。
 どう考えてみたっておかしい。
 美しくない。



 分岐しループする新道を横目でみてすぐに、旧歩道際にNo.9が立っている。
 砂場の前にして、バス停の横。
 ちょうどバスがやってきた。
 

● バス停前のNo.9


● No.9 [Finis House]

 略訳で。
「フィニス・ハウスはアッパー・クーメラ地区の休暇滞在者としての先駆者であった、シガント夫妻によって、1914年にランド・エンドに造られた。
 パインリッジ地区から切り出した糸杉松で造られ、だいたいにおいてランド・エンドから北地区の住宅にあっては地元のこの木材を使っていた。
 シガントはいくつかのビジネスを手がけており、ビゲラ・クリーク近くのキオスクなども経営していた。
 ここで彼はカキ床から採れるカキを、魚のエサとして売っていた。
 1940年代を通してこのキオスクは、第二次世界大戦の兵士たちの休暇施設として使われた。
 1934年にシガントの娘のマリーがジョセフ・プラウドと結婚し、数人の子どもたちを生んだ。
 プラウドは49歳のとき、サウスポートの市長となり、15年間勤めた。
 マリーは人気者の市長婦人として、また彼のチームの一員として、市のオフィースで過ごした。
 サウスポートの基礎はこれによってつくられたのである。
 プラウドは1952年に亡くなるまで、フィニス・ハウスで暮らした。
 彼は市民葬の栄誉を受けた。
 フィニス・ハウスは1980年にとり壊されるまでシガント家族によって相続された。」


● 1943年 フィニス・ハウスで、マリー・プラウドとその娘たち
 ペギー、ドリー、ベテー、そしてシシー


 「Lands End (ランド・エンド)」
 いい響きですね。
 「陸の終わり」なんともこみ上げてくる哀愁。
 昔、こんな歌謡曲があった。

 「凍えそうなカモメ見つめ泣いていました。 ----
 ごらんあれが竜飛岬、北のはずれと、見知らぬ人が指をさす」
 
 
冬でありながら暖いともいえる陽気の下で、ここのカモメは元気いっぱい、ずうずうしくもエサをねだりに足元でウロつく。

 「ごらん、ここがランド・エンド、陸の終わり、と 見知らぬ人が口ずさむ」
 
 南半球、北は暖かく、南は寒い。
 北のはずれランド・エンドは、言葉の響きとは違ってまるで淋しさの象徴にならない。
 単なるジョークか。
 なにしろ、若いおねえさんがビキニで日光浴をしているのだ。


● 「6300」 ランド・エンド、向こうの橋がランドエンド橋
 その下は、ビゲラ・ウオーターズ・クリーク


 ゴールドコースト橋から遊歩道を6300m、6.3キロ。
 北のはずれがこのランドエンド橋。
 旧歩道は橋の手前で右に折れて、内海沿いに造られた新しい遊歩道へと入っていく。


● ローラーブレードでバギーを押すお母さん

 遊歩道ではバギーを押した若いお母さんにたくさん出会う。
 平日でも9時を過ぎると行きかうバギーでにぎわう。
 日本の公園みたいなもの。
 「クレヨンしんちゃん」では「公園デビュー」というのがあったが。
 
 ところで、上の写真お母さん、イケてる。
 履いている靴はローラーブレードである。
 ジーンズの上からしっかりとスネ当てを巻き、赤いTシャツにサングラスをしてバギーを押している。
 よく見てください、このバギー、ひじょうに大きい。
 双子用。
 その双子用用のバギーをローラーブレードで押している。
 すれ違ったときついついカメラを向けたら、ニコッツ笑ってくれた。
 が、結局ブレてしまった。

 ここは日本よりもはるかに双子が多い。
 以前住んでいたところの前の住人にも双子がいた。
 これは男と女の子、二卵性双生児。
 当たり前にショッピングセンターで双子を見かけるが、二卵性ははじめてだった。
 


 新しい遊歩道の少し先が、Aコースの終点にあたるNo.10.
 上は行き過ぎて、来た方向を撮ったもので、中央の黒い支柱がNo.1o。
 右手にランドエンド橋が見える。



● No.10 [Biggera Creek and Cyclones]

 抄訳で。
「ビゲラ・ウオーターズの初めはマルチとレオンによって開かれたものである。
 1900年代初期のランドエンドはブッシュと湿地帯であり、単なる蚊の生息地であった。
 1930年代になり海岸沿いやその後背地に家が建ち始めた。
 1940年代、50年代は数多くのサイクロンの来襲にあった。
 特に1947年、1950年、1954年のものはすさまじい脅威をふるった。
 大洪水となり、道路は道路は壊滅的に水没した。
 木々は根こそぎ倒れ、家、屋根、フェンスのことごとくがダメージを負った。
 ボートのアンカーは外れたり切れたりし、相互にぶつかりあり、そして流されたり岸壁に打ちつけられたりした。
 1960年代になり、ビデラ・クリークは水深がとられ、川幅も十分に広げられたり、橋もかけられと整備された。
 その費用は36,000ポンドであった。
 1982年にラブラドールから地域的に分離し、ビゲラ・ウオーターズと命名された。
 「ビゲラ」とはユガンベ族の「red iron bark tree(レッド アイアン バンク ツリー)」というユーカリの木の名からきている。」


● 1970年のビゲラ・クリークとランドエンド・ブリッジ
  1947年のサイクロンで冠水したランドエンド近くの道路


 ビゲラクリークを見てみる。


● ビゲラ・クリークの河口


● ランドエンド橋から上流を写す

 広い川幅のクリーク。
 数分さかのぼってみます。
 ウオーターフロント(川沿い)の家はどこも桟橋をもっており、ボートを係留している。


● ビゲラ・クリークの川沿い


 ところが、である。
 ものの1キロもいかないうちに、このクリークは古のクリークに変貌する。
 つまり、十分は整備のされているのは、このビゲラ・ウオーターズと名づけられた地域一角のみということである。


 No.10の銘板には「END OF WALK A」と刻まれている。

 「ラブラドール遺産ウオーク Aコース」はこれで終了ということになります。
 ちなみに、ここまでの距離ですがコース案内では「1,940m」とあります。
 実際には見てきたように、2,000mは超えますので「2,100m」といったところでしょう。
 ここはループしていますので、内海沿いを遊歩道にまかせて戻ってみます。




● 内海沿い遊歩道


● シーレーンが見える

 内海を見ると陸と陸とが切れるところがある。
 これが内海と太平洋をつなぐシーウエイ。
 右側がザ・スピッツで陸続きです。
 左側が南ストラドブローク島。
 ゴールドコーストの内海はこの2つによって造られている。
 ザ・スピッツの付け根のゴールドコースト橋までは内海で「Broadwater:ブロードウオーター」、橋を越えると川になり「ネラング川」と呼ばれる。


● 旧歩道との合流点

 グルリと回って戻ってきますが、この周回コースは距離的には500mから6oomほどです。


 <ちょっと、雑談が多すぎた。>



 <後半へ>



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2009年6月28日日曜日

ラブラドール遺産ウオーク その4


● No.6 案内ポール


● No.7 案内ポール


● No.8 案内ポール



 No.6 へ向かう遊歩道に「5300」という数字がペイントされている。
 No.1 のところでは「4300」とありましたので、ここで1,000m(1キロ)歩いてきたことになります。



 左側の車道はマラソンコースで進行方向が往き、手前方向がゴールへ向かうことに、あと4キロほどになる。
 遊歩道にはあと10日(6月24日現在)にせまったGCマラソンにむけて、最終調整段階に入ったのか、平日なのにたくさんの人が走っていた。



 「5300」という数字があるならスタートの「0」があるはずです。
 それはどこかというと、ゴールドコースト橋のたもと付近になります。
 この遊歩道はゴールドコースト橋からランドエンド橋までの約6.5キロの長さをもつ散歩道になっています。
 この間、信号はキャラバンパークの取り付け道路に入るほとんど交通量のない交差点1カ所という、実に恵まれたコースです。
 両橋のたもとがループコースになって、ぐるりと折り返せるため、往復13キロのまさに絶好のランニング場所であり、週末にはすれ違うジョガーにはこと欠きません。
 がしかし、現在はブロードウオーター駐車場を公園に再開発する工事が行われており、いまのところ「1400」とういう標識で折り返さなければなりません。
 つまり、現在は往復10キロほどの短いコースになっているというわけですが、それでも10キロをほぼノンストップで走れるコースというのは珍しい。

 でも走るのに最高の場所はなんと言ってもビーチでしょう。
 ザ・スピッツというところからサウス・ノビーというところまでの約15キロ。
 往復30kmを、本当にたった1つの信号もなく走れます。
 ちなみにサウス・ノビーとは昨年までのGCマラソンの南の折り返し地点でもあります。
 ここは丘が張り出していて、道もビーチも遮断されており、いわば南はここまでしかいけない、といったところです。

(注:なを、今年はコースをそこから一度、ゴールドコースト・ハイウエイに持ち出し、それからもう一度海沿いに入れるという離れ技をやって、バーリーヘッズというところで折り返す形になっています。幹線道路の交通規制からいうとちょっと考えにくいコースですので、バーレーヘッズ地区からの強い要望でもあったのでしょうか。「その1」のコース案内を参照してください。ハーフマラソンは旧来と同じです。)

 それに、ビーチは裸足でも走れるほどにクッションがいい。
 実際に裸足で走ったことがある。
 実に気持ちがいい。
 ビーチで30キロ走れたとしても、衝撃の強いコンクリート・アスファルトコースを走れるとは限らないが、トレーニングコースとしてはその風景からして最高の場所と言えます。
 でも道路の方が反発があって、足が軽く上がるため疲労度が少ないということも確かなようです。

 先に挙げた新聞の切り抜きにGCマラソンの前日の土曜日に「モーニングラン」という」のがあるそうです。
 「ビーチ沿いを約3キロ 1時間かけて有森祐子さんと走る」とあります。
 有森裕子はこのマラソンの顔ですので、毎年やっているイベントのようです。
 3キロ1時間ならウオーキングより遅い。
 なにも走ることもない、ということになる。
 私でもこれくらいならなんとかなるかな、といったところです。

 いま再開発をしている駐車場は以前にGCマラソンのゴールになっていたところ。
 工事が始まったため使用できず、昨年今年とゴール地点はとなりのアンザックパークに変更になっています。
 再開発は今年中で完成すると思われますので、来年は新たにできるパークの駐車場(写真 stage-1 の左の駐車場)をゴールにするのではないかと思われます。
 見物する者にとっても、そちらのほうがぐっと面白いでしょう。
 再開発の写真を載せておきます。


● 完成予想図

 写真の真ん中にグーンと突き出ている棒状のものが桟橋。
 フェリーの発着所にもなり、フェリーを交通手段にすることもできるようになります。
 現在この街、急速な発展をとげてしまった中央部の交通渋滞緩和のための一策としてフェリーの大々的活用が遡上にあがっています。


● 工事進捗情況[2009/06]

 ちなみにブリスベンでは「キャットフェリー」と名づけられたフェリーが絶え間なく運航しています。
 例えば市内から離れたところにあるクイーンズランド大学にはこのフェリーを使ったほうが車よりもすこぶる早く行くことができます。
 もし、ブリスベンへ行かれたときは、このフェリーを利用してみてはいかがですか。
 日本領事館前の桟橋から出ており、クイーンズランド大学まで往復で5ドルほど。



 往復チケットを買って、終点で降りずにそのまま乗っていれば出発点に戻ってきて、ブリスベン川のクルーズが格安で楽しめることになります。
 安い割りにしては絶品のおすすめの観光コースです。

 
 話が大幅にそれましたので、元に戻します。


● No.6 [Early fishing life]

 ちょっと光の具合が悪く写真がボヤーっとしていますが、この辺は昔、魚やカキがよく獲れて、漁師に家がたちならび魚はブリスベンへ出荷されたという内容です。
 もちろん、いまはその姿も形もなく、日本でいうマンションが続々建設中です。


● 1945年 地元の人のとった魚
  1930年代 陸揚げされた魚はトラックに積み込まれてブリスベンの魚市場に運ばれていく


 つぎのNo.7までは422mで少しありますが、続けて載せます。


● No.7 [Oysters]

 これも写真が悪い。
 天気は晴天にして実にすばらしいのだが、どうもそういうときは写真は逆になってしまうようだ。
 写真機の知識は疎いので「バカチョン、ワタシにも写せます」でシャッターを切っているので、お許しを。

 抄訳しておきます。

「南東クインズランドの海岸に住んでいたアボリジニーたちは、しばしばモートン湾のカキ(牡蠣)を食卓で楽しんだ。
 19世紀の終わりころ、カキ養殖があたらしい移住者によって盛んとなった。
 モートン湾から得たカキをもとにブリスベン郊外のあちこちで養殖された。
 それは盛況であったが、1880年にクインズランド政府は養殖の場所を限定する声明を出し、正規の養殖か、あるいは家族的なもののみが許可されることになった。
 1930年代に養殖が行われていた南サウスブローク島には店も学校もなかった。
 子どもたちはボートで対岸の学校に通っていた。
 ときにしばしば子どもたちはカヌーを使い、自力で内海を横断した。
 
”それは、おどろくべき距離である。
 しかし、子どもたちはそれをやった。
 彼らはホリウエルに着き、そこからスクールバスにピックアップされて、ラブラドールの先生一人の学校に通った。
 Lilly Levinge"



● 1940年代 ラブラドールの学校にかよっていた子どもたち。


 No.7の前になかなかデザイン的なベンチがあった。
 といってもデザインとしてはシンプル。
 このシンプルさが、なんともいい。
 というより、屋根がついているからかもしれない。
 柱と屋根のバランスがいい。
 屋根カーブが微妙にいいのかもしれない。




● 屋根つきベンチ

 このあたりのベンチに腰掛けて内海をみるのも楽しい。
 写真のように水上スキーをやっていたり、休日ならパラセーリングも見物できる。
 スピードボートが急カーブを切って、観客からの悲鳴が聴こえたりする。


● 水上スキー


● 座ったままの水上スキー


● カヌー

 水上スポーツのパラダイスである。
 水上飛行機も離発着している。
 そういえば最近は「紅の豚」をみかけないが飛んでいるのだろうか。



 そのベンチの一つの脇にNo.8が立っている。


● ランナー、No.8、ベンチ


● No.8の案内ポールとその横のベンチ


● No.8 [Woodlands Boadings House]

 抄訳で。
「ジョン・ビーサムとその妻マリオンは1883年に、以前に購入してあった土地に「ウッドランド・ボーデイング・ハウス」をオープンした。
 地域の打ち合わせや、会合、結婚式の式場などに利用された。
 1887年にはホテルとなった。
 桟橋がつくられ、南ストラドブローク島からはカッターが、ブリスベンからは小型の蒸気船が発着した。
 1893年にこのホテルは終業し、個人の住宅となった。
 1910年には解体され、この木材はサウスポートの「セルムスフォード・ゲストハウス」の建設に使用された。」


● 1883年から1910年の「ウッドランド」



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2009年6月27日土曜日

ラブラドール遺産ウオーク その3


● No.3 案内ポール


● No.4 案内ポール


● No.5 案内ポール



 ペリカン・シーフード店の周りは「ハーレーパーク」と呼ばれる公園になっている。
 ペリカンの餌付けや自然プール、バーベキューエリア、遊園地などがあり、家族連れで年中、一日中にぎわっている。


● No.3 [Herley Park]

 No.3はその名前の由来を記したポールである。
 「ハーレー」とはゴールドコーストの有名な市長であった Ernest Oliver Harley からとったという。
 彼は1911年にローマで生まれ、1945年にこの地へ移ってきた。
 シーフードビジネスの草分けで、「Herley's Seafoods」と呼ばれていた。
 いわば、ペリカン・シーフードの初代で、いまはチャリスさんがやっているいうことのようである。


● 1970年ころのハーレーパーク(中央右のビーチ沿い)


 自然プールの脇にへんてこりんなものがあった。
 こりゃナンだろう、デザインベンチかな、と思った。
 でも座るにはちょっと、無理。
 では何?。


● へんてこりん物体:何のオブジェだろう?

 下が横にあった、解説。


● へんてこりん物体の説明


 遊歩道を南に向かうと、その際にのっぽの柱が立っている。
 上にはライトがついている。
 灯台。
 以前はここに、コンクリート製の灯台があった。
 径が1m半ほどの8角柱の煙突のような灯台であった。
 頂部には灯りがあり、その周りにはプリズムガラスがはめ込まれていた。
 それが先年取り壊されて、えらくスマートな細っこいポールに変わってしまった。
 でも背の高さはグーンと長くなった。
 この高さが必要となり、旧来のコンクリート灯台は壊されたのだろうと思う。


● スマートになった灯台


 これ何のデッキだろう。
 もちろん、景色をみるためのベンチがあるから展望デッキであることは確かだが。
 ここはやたらと陽射しが強いところ。
 冬の陽射しとてバカにならない。
 曇り空ならいいが、まともなら数分とじっとは座っていられない。
 まして夏なら、とんでもないこと。
 よって、このあたりの休息用・展望用のベンチにはかならず屋根がついている。
 がこのベンチ、数年たつがまるでその気配すらない太陽の下でむき出しのベンチ。
 日本では紫外線カットで、何でもUV仕様になっているが、さらに強烈なこの地でどういうことだろう。
 まるで、皮膚ガン促進ベンチのようにも思えてくるのだが。
 写真では曇り空のように見えますが、晴天そのもの。
 写真機というのは、あまりにクリアーに空が青いと、どうも自動的に絞ってしまい、まるで曇り空のように写してしまうもののようです。


● 皮膚ガン促進、むきだしデッキ



● そのベンチで展望を楽しむ人たち

 そのデッキに人がきた。
 でも3分と座っていられない。
 もし、本当に展望用につくるのなら、何らかのデザインで屋根をかけるべきであろうと思う。
 が、それをあえてやらないでおくということは、理由があるのだろう。
 あるいは単なる、デザイナーの考え方によるものなのであろうか。

 さてさて、その手前に写っている「魚の骨」というか「魚のガイコツ」はなに。


● 6匹の魚ガイコツ

 これも有名なオブジェ。
 ゴールドコースト・ハイウエイが内海に交わるところにつつましやかに置かれている。
 右に曲がるほぼ目の前に立っているため、エッツと思って目をこらすと、運転がおろそかになり事故のもとになる。
 こういう目立つところには、ちょっと控えめめなほうがいい。
 でも、6匹もいると次々と見たくなり、視線が釘付けになってしまい、ちょっとこれも危ない。
 ここからゴールドコーストの町が始まるといった場所なので、魚の歓迎彫刻を設置したわけであるが、なかなか難しい問題でもある。
 と、勝手に考えているだけで、とりたてての問題ではないのだが。
 ここは近いうちに拡幅されますので、魚が車道際にズラリと並ぶことになりそうだが、どうだろう。
 面白いと思うのだが、安全管理の面から、移動させられることも大いにありうる。
 設置されたときは、黒光りしてイキのいい魚だったのだが、近年はだいぶ錆びてきた。
 もうそろそろ、エナメルペイントで塗りなおしをしてもいいと思うのだが。
 「くたびれたサカナ」では街のイメージがよくなかろう。

 この魚ガイコツのところにNo.4がある。


● No.3 [Labrador House]

 簡単に説明すると、
「ラブラドール・ハウスは1883にフランシス・オーガスタ・ルイス・ソーンによって建設されたホリデイ型のハウスであり、これは郊外地に関する画期的な出来事の一つであった。
 1923年にジム・キャビルが短期間であるがここのオーナーになり、この地でニュービジネスを起こそうとした。
 だが彼の計画は進まず、結局、サーファーズパラダイスが候補となり、彼の名前はサーファーズパラダイスの中心「キャビル・アベニュー(Cabill Ave)」に残っている。
 ハセマン・ファミリー(The Hasemann Family)が最後のオーナーとなった1945年と1946年にコンビニエンスストアが造られ「Stop'N Shop(ストップン・ショップ)」と呼ばれた。
 が、1970年に突然建物は崩壊してしまった。」
と、いうことのようです。


● 1883年に立てられたラブラドール・ハウス
  1946年の「Stop'N shop」


  そしてちょびっと歩いて175m。


● 遊歩道に刻み込まれた歩行者・自転車専用道路マーク

 遊歩道の一部には、いまだ古いコンクリート敷きのところもありますが、新装なった遊歩道には必ず、上の歩行者・自転車専用道路マークが刻まれています。


 もうNo.5がある。


● No.3 [Labrador Hotel]

 抄訳で。
「1881年にフレデイック・ショーはこの地を購入して「ラブラドール・ホテル」を造った。
 ホテルは3つの集会室と15のベットルームをもち、ブリスベンからボートで来たお客はホテル専用の桟橋から迎えられた。
 1884年にアルコール販売ライセンスを取得した。
 1888年3月10日の「サザン・クイーンズランド・ブリテン」紙はラブラドール・ホテルをつぎのように伝えている。
 ”この地の有名にしてすばらしい、もっともポピラーなシーサイドリーゾートの1つである”
 この年、1888年に火事で完全に消失し、アルコールライセンスはグランド・ホテルに譲渡された。」



● ラブラドール・ホテルの写真



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